![]() | にぎわいを創る 近代日本の空間プランナーたち 橋爪 紳也 (1995/10) 長谷工総合研究所 この商品の詳細を見る |
都市を形作るのは建築家と行政ばかりではない。
近代日本において、都市のにぎわいの演出というソフト面に尽力した
人物12人を列伝形式に紹介したのが本書。
ここで登場する人物は全てが才覚に富み、華々しい生涯だったわけでは
ない。先見の明には長けても外的要因で時に挫折することもある。
しかし彼らは自身の信念を頑なに信じ続け、それを実行しようとする
意志があった。
そこをすくいあげ、評価し、近代日本の都市像をもう一度組立て直そう
というのが著者の狙いだろう。
もっと個々の人物が立体的に浮かび上がってくるような叙述だったらと
思わないでもないが、そもそも資料自体が少ないだろうし、まぁそこは
致し方ないところか。
読書ノート
橋爪紳也『にぎわいを創る 近代日本の空間プランナーたち』
(長谷工総合研究所、1995)
はじめに
高いところから見晴らしていると、都市とは超越者からさずかったものではなく、私たち人間が、みずからの手でつくりあげてきたものであることがよくわかる。
あまりにも周知のことだけれども、だからこそ私たちは、日常の生活のなかで、この簡単な事実を忘れがちだ。(p.6-7)
私のイメージする「都市」は、人間を収容する機能的で冷たい器ではない。あるいは神をまつる神殿でもない。人々の生命力が重なりあうことで、都市という共同作品は、はじめてかりそめの寿命を吹きこまれ、その寿命を保つことができる。
適切な言葉を思いつかないが、あえて言うならば、都市とは「集い」を求めるおおぜいの意思によってデザインされた、ヒューマンスケールの「にぎわい」が重層化した場、と定義できるかもしれない。(p.9)
本書では、明治・大正・昭和というそれぞれの時代において、都市計画家や学者、あるいは実業家たちが、どのような「にぎわい=都市」を創りだそうとしてきたかを、人物誌のスタイルで論じることにしよう。(p.9-10)
第一章 集客ビジネスの先人たち
「文化の楽園」を創った鉄腕ーーー天野皎 ←皎は「あきら」と読む
二三歳、日本最初の教育学者となる ←得意とするところは博物学教育
三一歳、鉄腕と呼ばれる
三五歳、大阪博物場長になる
博物場は、博物館と商品見本市会場を足した複合的なイベントスペースであると言えばわかりやすい。(p.15)
三七歳、「楽園」をつくる
三八歳、商業倶楽部を計画する
三九歳、商業倶楽部を成功させる
「楷書」の博物場と、「行書」あるいは「草書」にたとえられる商業倶楽部。(p.24)
三九歳、スキャンダルにまきこまれる
四七歳、旅の枕に死す
集客ビジネスの才人ーーー山田才吉
ヒット商品を連発する
明治一七年(一八八四)、三二歳の春、今度は海藻や魚介類を素材とする缶詰の製造販売に着手する。ちなみに明治七年、日本ではじめて食品缶詰をつくった千葉のメーカーも漬物製造業者であった。保存食を製造するノウハウを活用できたのだろう。日露戦争が勃発した際、軍部から才吉に注文が殺到した。特需でおおいに儲け、ビジネスの基盤を確実なものとした。(p.29)
←日露戦争と缶詰
中京財界の立役者
食品商としてめどがたった明治二〇年には、中京新報を創刊、新聞事業にも手をだしている。(p.30)
マンモス集会所 東陽館
明治二〇年代から日本の各都市で、「会」「会合」が流行した。資産家たちは仲間と資金をだしあって、西洋風の「会社」をつくり、近代都市を舞台にビジネスチャンスを探った。江戸時代の座に代わって、新しい同業社組合がつぎつぎと生まれる。さらに名望資産家たちは、政治に参加するために「社」を結成した。
各団体はそれぞれに、懇親会や総会、名刺交換会、年賀会など、それまでには見られなかった「会」を主催する。資産家や政治家たちのなかで、西洋の物真似の「社交」がはじまったわけである。(p.32)
←社交の誕生
ウォーターフロント開発の先駆け ←名古屋港
埋立地の楽園 南陽館
沿線開発への先見性 北陽館 ←日本ライン
聚落園の大仏
百貨店を発明した侍ーーー日比翁助
都市のにぎわいのエッセンス
子供たちにとって、百貨店と呼ばれる巨大な集客装置は、都市的な経験を積む教習所でもあった。商品があふれる店内は、消費生活を体感するシミュレーターである。バーゲンセールや、さまざまな文化的な催時のときのにぎわいは、都市的な歓楽のエッセンスだ。大都会のミニチュアを回遊するうちに、子供たちは「都市」の本質に目覚めていく。もちろんその誘惑は、大人にとっても強力で抗し難いものである。(p.43)
呉服店から百貨店へ
明治二九年、三越の前身である三井呉服店が、陳列販売方式を用いはじめている。(p.43)
陳列販売のあきらかな効用は、視線を透過するガラス越しに商品への欲望をつのらせ、消費衝動を誘うという点にある。やがて各呉服店が導入しはじめるショーウィンドーのディスプレイと連動して、盛り場を徘徊する大衆を高度な消費生活を予感させる店内へとなだらかに誘ったのである。(p.44)
士魂商才
やがて福沢諭吉の推薦で、モスリン商店の支配人となる。(p.45)
ハロッズに学ぶ
土蔵造から洋風建築へ
広告戦略
日本では天皇家に次いで二台目のガソリン自動車を購入、車体に三越のマークを入れて市内を走らせている。(p.53)
直接に商品をPRするのではなく、文化的な事業として企業イメージをたかめる発想は、当時としては珍しかった。もっともその費用も馬鹿にならず、社内的にも批判が続出したらしい。けれども翁助は、それを押し切っては、ひとつひとつ自分の発想を現実のものにしていった。結果的にその大胆な広報戦略が効を奏し、高い評価を得ていくのである。(p.53)
学俗協同
翁助は「流行會」(のちの時好倶楽部)と称するゆるやかな異業種交流の会合を組織・運営した。この親睦会には、新渡戸稲造や佐佐木信綱といったさまざまな分野の著名な学者、さらには教育者・アーティスト・新聞記者など、いずれも一流の文化人ばかりがメンバーとして加わっている。(p.54)
翁助は、社会教育、とりわけ児童教育についておおいに関心があった。そんな彼の想いをかたちにしたのが、明治四一年に開催された児童博覧会であり、少年音楽隊の結成であった。また巌谷小波を嘱託にやとって児童用品部を設置、同時に専門家たちを集めて、「児童用品研究会」を結成している。(p.54)
石垣論
全社あげての大運動会は、世間を驚かせた。翁助は、組織が大きくなればなるほど、重役も店員も一致して働くことの大切さを痛感していた。親睦を深める機会として、営業が比較的暇な秋を選び、千人を超える全社員が、用意された貸切列車で鎌倉へと移動した。その側面にはぬかりなく、三越のマークが取り付けられていた。
まず一同で鶴岡八幡宮に参拝、由比ケ浜まで行進して、渚の仮設会場で運動会が挙行される。余興には仮装行列と少年音楽隊の演奏などがあった。ユニフォーム姿のメッセンジャーボーイたちが自転車で、鎌倉市中を駆けめぐる。(p.55)
←鎌倉での大運動会
田園都市の職人ーーー橋本八重三
園芸家として
はじめての著書
園芸場の経営
近代式造園業をめざす
馬乗り植木屋
『ガーデン』の創刊
二四歳の実業家
郊外住宅地の造園を手掛ける
家と庭
百貨店の園芸部 ←大丸呉服店(大阪心斎橋・ヴォーリズ設計)の屋上庭園
大丸の廉売部 ←日用品の物価高騰(大正一〇年)、百貨店による日用品の廉売
大丸市場への参画
橋本屋マーケット ←大正一二年、八重三弱冠二八歳
庭園事業への復帰
広告戦略と植物病院事業
橋本式自然木
異端の庭師
田園都市の職人
第二章 イベント空間を演出した人たち
盛り場のコーディネーター ーーー奥田弁次郎
寺町の再開発 ←大阪千日前
墓所のにぎわい
荒廃する墓地跡 ←廃仏毀釈による仏式火葬の禁止(明治六年)
イベント主導による再開発
ドンカチ屋と薮知らず
成熟する盛り場
弁次郎のイベントプロデュース ←人体解剖の蝋細工(アナトミ館)
まちづくりコーディネーター
博覧会を唱えた男ーーー田中芳男
パリの博物学者 ←パリ万博(一八六六)への派遣
昆虫標本の嚆矢
パリでの見聞
大阪でのプロジェクト
遊歩所・園囿構想
幻の博物館
湯島聖堂の博覧会 ←日本最初の博覧会(明治五年)
博覧会の展示品 ←名古屋城天守閣の金鯱が話題に
蝙蝠的プロデューサー感覚
イルミネーションの仕掛人ーーー土居通夫
藩を脱け天下国家を憂う
新政府にあって官吏となる
野に下り起業家となる ←大阪の公的な企業の創設に関与
盛り場を電気で照らしだす
博覧会を実現させる
公的な仕事で土居通夫の名をひろく知らしめたのは、第五回内国勧業博覧会を大阪に誘致することに成功した功績である。(p.121)
明治時代、内国勧業博覧会という政府主催のイベントがあった。各地からさまざまな商品を集めて一般に縦覧、その優劣を競わせることで、商工業の振興とと商品流通の進捗をはかろうというねらいだ。殖産興業をはかる政府の政策を、わかりやすいかたちで庶民に伝えるメディアとして位置づけられた。政府主催ということから、同時期に各地で開催された地方博覧会・共進会とは比べものにならないほどのビッグイベントであった。(p.121-122)
日本最初のイルミネーション
晩年の活躍
商工業都市大阪の近代化が、博覧会を契機に一気に加速した。(p.129-130)
昭和の大見世物師ーーー乃村泰資 ←ディスプレイ業界の大手、乃村工藝社の創業者
大道具方から菊人形師に
段返しという発明
国技館に進出
イベントの既成概念をうちやぶる
氷を使った見世物
水を使った見世物
世相を見せる見世物
メディアイベントの仕掛人
第三章 「街」を創った人たち
大阪を蘇生させた官吏ーーー建野郷三
建野郷三着任す ←明治一三年、大阪府知事に着任
都市治安の確立 ←大阪府警部長・大浦兼武と組む
盛り場の建築規制
明治十九年のスラムクリアランス
明治二〇年千日前移転計画
激化する反対運動
娯楽地区再編計画の真意
大阪改造計画の終焉
居留地のプランナー ーーーR・H・ブラントン
お雇い外国人第一号
鉄道技師となる
灯台技師として来日を果たす
日本での活躍
横浜居留地の整備事業
日本最初の舗装道路
街路照明
上水道の計画
横浜公園と日本大通り
年号が明治に変わるのとほぼ同時に、西欧流のまちづくりの思想と技術が導入され、順次、現実に移されたいたことは特筆すべきことであろう。居留地というミニチュアのような都市での計画であったが、彼が行なった各種の事業は、いずれも日本における近代的な都市計画の嚆矢となるものであり、各地のまちづくりの手本となるものであったことはまちがいない。(p.177)
日本を想い、故郷で死す
花苑都市のデザイナー ーーー大屋霊城
造園家としてのデビュー
大正から昭和初期にかけて、都市内における公園緑地の必要性を説いた理論家であり、また関西を本拠に公園の設計に携わった実践家である。造園学や都市計画といういささか限定された分野において名を遺す先駆者ではあるが、その思索の跡、そして成し遂げた仕事を確認していくと、その守備範囲のひろさに驚かされる。環境デザイナーのパイオニアのひとりである、と言ってよいだろう。(p.179)
大阪に拠点を見いだす
理論家として
「田園都市論」との出合い
田園の都市化
都市の田園化
甲子園花苑都市
藤井寺花苑都市
田園都市論と民衆娯楽研究
都市が「民衆」の所有物になった大正中期。民衆娯楽問題が顕在化する。工場の勤労条件改善運動の一貫性において論じられたもので、民衆文化問題や民衆芸術論等と同じ位相をもつ。労働者の余暇生活の重要性と、厚生・娯楽施設の拡充・整備が論点となった。その問題意識は都市レベルに拡大される。都市生活者の余暇生活と、娯楽供給者たる商業資本の「在り方」について、学者や政治家・知識人等が、雑誌等を舞台に論争を繰りひろげた。また農村における娯楽の改良、余暇生活の近代化も、重要な議論の対象であった。(p.198)
従来、大屋霊城は、公園計画の先駆者として高い評価を得ている。(略)都市娯楽施設に興味をもち続けた田園都市論者であるという認識も重要であろう。(p.199)
コロハウスの実践
歌舞伎町を創った男ーーー石川栄燿
その生い立ち
多極化の提唱者
彼の発想は、東京への一極集中を排除して、多極分散型の地域計画を導入しようというものであった。(p.205)
盛り場研究の先駆者
生活圏としての盛り場
盛り場に転換する条件
「盛り場計画」の提案
「盛り場計画」の実践
歌舞伎町の命名
日本に都市はない
栄燿の自宅は豊島区目白にあった。近隣に住んでいる有志を集めて「目白文化協会」を結成、月に一度のペースで「文化寄席」と称し自宅を開放した。文化人や有力者の講演会、音楽家による演奏会などをみずから企画している。(p.213)
後記
参考文献
関連年表
関連リンク
・松岡正剛『ちょっと本気な千夜千冊虎の巻-読書術免許皆伝』
・「ニッポンのマンガ-AERA COMIC」
・西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』
記事履歴
2007.07.31 初稿
2007.08.04 補筆
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